東京地方裁判所 昭和52年(特わ)2266号 判決 1978年7月28日
被告人 小島俊雄 外二名
主文
被告人小島を懲役八月に、被告人秦、同望月をそれぞれ懲役六月に処する。
この裁判確定の日から、被告人小島に対し二年間、被告人秦、同望月に対し一年間、それぞれその刑の執行を猶予する。
訴訟費用は、被告人秦、同望月の連帯負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人小島は、公正取引委員会事務局官房審判官室長補佐として、同室長の命を受けこれを補佐し、同委員会の審決の執行などの事務を統括整理していたもの、被告人秦は、化学工業及び包装に関する調査レポートの発刊等を目的とする日本包装出版株式会社の代表取締役、被告人望月は、同会社の取締役であつたものであるが
第一 被告人小島は、公正取引委員会において、昭和五一年一一月一九日私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(昭和二二年法第五四号)第四八条に基づき勧告審決を行つた別表第一記載のシエル化学株式会社ほか七社に対する汎用エポキシ樹脂販売価格協定事件(昭和五一年(勧)第二三号事件)の審決の執行に際し職務上入手した右事件の審査報告書・同付属書類、別表第二記載の東都化成株式会社ほか一〇社提出の「エポキシ樹脂の生産、販売状況等について」と題する報告書及び別表第一記載のシエル化学株式会社ほか七社提出の需要家リスト等、別表第三記載のとおりいずれも各事業者の秘密に属するエポキシ樹脂に関する生産・販売数量、販売単価、売上高、代理店名、代理店との取引条件、需要者名、需要者別販売数量及び主要原料の購入先・購入数量・購入価格等の事項が記載された文書の内容を、別表第四記載の日時・場所において、同表記載の方法で、被告人秦及び同望月に了知せしめ、もつてその職務に関して知得した前記各事業者の秘密(別表第三記載のとおり)を他に漏らした
第二 被告人秦、同望月は、公正取引委員会が、前記第一記載の価格協定事件につき、昭和五一年九月三日いわゆる臨検調査を行つた事実を聞知するや、かねて酒食を提供するなどして密接な関係にあつた被告人小島をして、同被告人が右事件に関しその職務上知り得る事業者の秘密に属する前記各事項が記載された文書を提供させ、これを利用してエポキシ樹脂の需給及び流通状態に関する出版物を刊行しようと企て、共謀のうえ、昭和五一年九月二二日ころ、東京都千代田区鍛治町一丁目七番一号喫茶店「椿」において、被告人小島に対し「エポキシをやりましたね。資料を流してほしい。」などと申し向けて前記文書の提供方を要求し、同被告人をしてその職務に関して知得した事業者の秘密を他に漏らすことを決意させ、よつて前記第一記載の犯行を実行せしめ、もつて同被告人の前記第一記載の犯罪を教唆した
ものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
罰条 判示第一 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独禁法」という。)九三条、三九条
同 第二 刑法六〇条、六五条一項、六一条一項、独禁法九三条、三九条
刑種の選択 いずれも懲役刑を選択
刑の執行猶予 刑法二五条一項
訴訟費用の負担(被告人秦、同望月) 刑訴法一八一条一項本文、一八二条
(独禁法九三条、三九条にいう「事業者の秘密」の意義並びに被告人秦、同望月の所為の正当業務性について)
一 「事業者の秘密」について
独禁法は、自由主義経済体制の下で、国家が企業活動に一定の介入を図ることにより、経済市場の「公正且つ自由な競争を促進」させようとするものであり、かかる独禁法の目的とする政策を実施する機関として設けられた公正取引委員会が、その所期の目的を有効かつ適正に果たすことができるようにするため、独禁法は、公正取引委員会に広汎な権限を与え、かつ、これに強力な調査権限(同法四〇条、四六条、九四条、九四条の二)を付与している。そのため、各企業は、本来その秘密は、自己の責任と努力においてこれを守り、自由競争経済秩序の中で自己の存立と繁栄を図ることが予定されているのであるが、独禁法の政策に触れる範囲においては、各企業の好むと好まざるとにかかわらず、公正取引委員会にその経済活動の赤裸々な姿を掌握されることとなるのである。しかし、それはあくまでも独禁法の目的とする政策を有効かつ適正に執行する公益的必要が各企業のプライバシーに優先すると策定されたからであつて、右公益的必要の限度を越えて企業のプライバシーが侵害されることまでを法が容認しているわけではない。独禁法九三条、三九条は、同法が右の趣旨の事業者のプライバシーの保護に責任を持つことを明らかにし、ひいては、公正取引委員会の企業秘密保護に対する一般の信頼を確保して、その権限行使の円滑適正を図らんとしたものと解される。したがつて、独禁法九三条、三九条にいう事業者の「秘密」とは、非公知の事実であつて、事業者が秘匿を望み、客観的に見てもそれを秘匿することにつき合理的な理由があると認められるものをいうと解するのが相当である。
これを本件についてみると、前掲各証拠によれば、エポキシ樹脂生産販売業界は、当初は、ごく少数の企業が市場を独占していたのであるが、エポキシ樹脂の使用技術が難かしく需要者がなかなか延びないところに昭和四四、五年以降製造を開始する業者が相次ぎ、熾烈な顧客獲得競争を展開していたこと、そのため、各事業者は、エポキシ樹脂の生産原価、販売価格、代理店との取引条件等の価格関係はもとより、その生産・販売数量、売上高、代理店名、需要者名、主要原料の購入先・購入数量等の関係についても、これを企業秘密として秘匿し、別表第三記載の事項は、いずれも非公知の事実であつたことが認められる。そして、本件における各事業者のエポキシ樹脂に関する生産・販売数量、販売単価、売上高、代理店名、代理店との取引条件、需要者名、需要者別販売数量及び主要原料の購入先・購入数量・購入価格は、いずれもエポキシ樹脂生産販売業界における各事業者の企業競争力を構成し、また、顧客獲得競争に臨む戦術のいわば手の内を示すものであるから、自由競争経済秩序の下で、各事業者がこれらの事項を秘匿することについては、客観的に見ても合理的な理由があると認められる。
以上のとおりであるから、本件起訴にかかる別表第三記載の事項は、いずれも独禁法九三条、三九条にいう事業者の秘密にあたるものと認める。
二 被告人秦、同望月の所為の正当業務性について
被告人秦、同望月の各弁護人は、いずれも、右被告人らの行為は、化学工業関係の市場動向についての調査及び関連出版物の発行を目的とする事業者の取材行為として、正当行為性を具備している旨主張する。
確かに、被告人両名は、化学工業界の生産、需要、価格、流通状態等に関する市場調査及び関連出版物の発行等を営業目的とする会社を主宰し、その業務に従事するいわゆる情報出版業者として、エポキシ樹脂の需給及び流通状態に関する出版物を発刊することを企画し、その資料を入手する目的で、被告人小島に対し、公正取引委員会が調査収集したエポキシ樹脂に関する資料の提供方を求め、これによつて被告人小島を動かして判示文書を入手したものである。
しかし、その状況を見るに、前掲各証拠によれば、被告人秦、同望月の両名は、かねてエポキシ樹脂業界の製造販売の実態などについて資料を入手して本を出したいと思つていたが、同業界は閉鎖的で業者筋からは容易に資料・情報を入手することができず、困つていたところ、たまたま公正取引委員会がやみカルテルの疑いで関係エポキシ樹脂業者の強制立入調査をしたことを新聞報道によつて知り、これ幸いとばかり、数年来金員や酒食を供与・提供して公正取引委員会が調査収集した資料を流させていた被告人小島を使つて、公正取引委員会が集めたエポキシ樹脂製造販売業界の実態を明らかにする資料を入手することを企図し、両名意思を相通じて、昭和五二年九月下旬ころ、被告人小島を遊興に誘つたうえ、喫茶店「椿」において、同被告人に対し、「公取はエポキシ関係会社の手入れをやりましたね。資料を流して下さい。」旨述べて、エポキシ樹脂業者の秘密漏示方をしようようし、その際、同被告人が「よし、わかつた。資料が入つたら連絡するから」と、その要求を承諾してくれたことに対する謝礼の趣旨で、同被告人に現金一万円を供与し、更に、同被告人が判示のとおり各文書を交付した都度、一万円ないし二万円の現金を供与したうえキヤバレー等で饗応したものであつて、しかも、被告人秦、同望月両名の編集・出版した「エポキシ樹脂需給の徹底分析と流通実態調査」と題する本は、全面的に被告人小島から提供された資料に依拠し、他に何ら独自の調査取材活動をしていない(そのため、本の内容は、取材源が公正取引委員会関係者以外には考えられないことが一見して明らかな体のものであつた。)ことが認められる。
以上のとおりであるから、被告人秦、同望月の所為は、守秘義務を有する公務員に対し、酒食、金員を提供、供与して、事業者の秘密を漏示させるという贈賄にも問いうる手段、方法において、法秩序全体の精神に照らし、社会観念上是認することのできない不相当なものというべきであつて、とうてい正当な取材活動とは認められない。
したがつて、弁護人らの主張は採用できない。
(裁判官 石川善則)
別表第一
番号
事業者名
1
シエル化学株式会社
2
東都化成株式会社
3
大日本インキ化学工業株式会社
4
三井石油化学エポキシ株式会社
5
旭電化工業株式会社
6
大日本色材工業株式会社
7
日本チバガイギー株式会社
8
旭化成工業株式会社
別表第二
番号
事業者名
1
東都化成株式会社
2
大日本インキ化学工業株式会社
3
三井石油化学エポキシ株式会社
4
旭電化工業株式会社
5
大日本色材工業株式会社
6
三菱油化株式会社
7
旭チバ株式会社
8
昭和電工株式会社
9
住友化学工業株式会社
10
日本化薬株式会社
11
チツソ株式会社
別表第三 漏示された事業者別秘密事項 文書との対応関係
1 ○印は、審査報告書・同付属書類
2 △印は、「エポキシ樹脂の生産・販売状況について」と題する報告書
3 ※印は、需要家リスト
秘密事項
事業者名
生産数量
販売数量
販売単価
売上高
(販売実績)
代理店名
(販売業者)
代理店との取引条件
需要者名
需要者別販売数量
主要原料
購入先
購入数量
購入価格
シエル化学
○
○
○
○
○
※
※
東都化成
○△
○△
○
○△
○△
○△
※△
※△
△
△
△
大日本インキ化学工業
○
○
○
○△
○※
○
※
※
△
△
△
三井石油化学エポキシ
○△
○△
○
○
○
○
※
※
△
△
△
旭電化工業
○
○
○
○△
○
○
※
※
△
△
△
大日本色材工業
○
○
○
○△
○※
○
※
※
日本チバガイギー
○
○
○
○
○
※
※
旭化成工業
○
○
○
○※
○
※
※
三菱油化
○△
△
△
△
△
△
旭チバ
○△
△
△
△
△
△
昭和電工
○△
○△
△
○
△
△
△
住友化学工業
○△
△
○
日本化薬
○
○
△
△
△
△
チツソ
△
別表第四
番号
年月日(ころ)
場所
犯行の方法
文書の標目
手段
1
昭和五一年
一二月一〇日
東京都千代田区鍛治町一丁目七番一〇号喫茶店「椿」
審査報告書
同付属書類
上記文書の写を秦・望月に手交
2
昭和五二年
一月下旬
同都同区内幸町二丁目一番一号
飯野ビル一階 喫茶店「フアースト」
需要家リスト
上記文業の写を秦に手交
3
昭和五二年
二月中・下旬
同都同区鍛治町一町目三番九号
キヤバレー ニユートウキヨウ店内
「エポキシ樹脂の生産、販売状況等について」と題する報告書
上記文書の写を望月に手交